地名の言われと歴史

■武内村

 この地を平定したとされている武内宿禰の名をとり武内村となったと思われる。

   真手野村、馬渡分村、多々良村、柚木原村の村名は正保絵図(1645年頃)からみえる。この地域に
  加え梅野村は室町時代は塚崎庄で塚崎後藤氏の所領であり、江戸時代には佐賀藩武雄領であった。
  いずれも明治6年(1873年)真手野村となった。

■真手野村

この地は鎌倉時代から室町時代まで塚崎後藤氏の領地で、塚崎庄に属した。塚崎後藤氏二代資茂が西下の際、松尾の家臣十七騎を従えていたとされており、松尾苗字の多い地域である。この村には、古窯跡が多く、豊臣秀吉の朝鮮出兵に出陣した塚崎後藤氏(武雄領主)20代の家信が朝鮮から深海宗伝一派の陶工団900名を連れ帰り、この村の内田に築窯し、陶器を製造させていた。

■馬渡分村

武雄領主25代鍋島茂昭は享保19年(1734年)佐賀藩主から牧方頭人を命じられ、武雄領内の多々良村の陣の平山の東麓に牧場を設け、佐賀藩の乗馬の育成をおこなった。この牧場で飼育・育成された馬は、当村で松浦川を渡って藩内でに配分された。馬が渡河したところから「馬渡」の村名が生まれ、真手野村からの分村とされたのは、牧場の管理などを行う牧方役所が置かれ、この役所の諸経費をまかなったことによるものと言われる。

■多々良村

多々良、多々羅といった地名は全国の山中に多いが、これは鍛工または鋳工、陶工などと関係が深いようである。佐賀県方言辞典には、「陶器窯に用いる一種の薪(まき)をタタラギという」と記されている。新撰姓氏録巻二十に「山城国諸藩の内に任那(みまな)から帰化したという多々良公氏というのは、欽明天皇の御宇に来朝して金属品を献じたので、これをほめて多々良公の姓を賜った」とある。この多々良氏が全国に拡がり、金属類や刀剣などをつくったと伝えられている。任那には多々羅という地名があり、多々良も古く帰化人によって開発されたところと考えられる。林屋辰三郎の本の中には「製鉄所に用いる足で踏む大型のフイゴを路輔(タタラ)」という。また多々良はもともと蒙古語で地金のことをいう。この村の陣の平山には館跡があり、石垣や井戸が残る。塚崎後藤氏の館であったと伝えられている。伝説の「黒髪山の大蛇退治」の際、囮となた万寿姫の夫となったという西岳壱岐守の碑が西岳集落にある。また桃山時代の築窯と考えられる多々良古窯跡があり、巻上げ式叩き技法を伝えている。

■梅野村

慶長絵図(1600年頃)に「梅野」とある。海正原、鯨渕の地名がある。佐賀藩武雄領では山内代官所の管轄であった。この村にかつて盲僧の寺があり、「黒髪山の大蛇退治」の伝説で、鎮西八郎為朝の矢を射込まれた大蛇が白川の池に沈んだが、盲僧たちが池に飛び込み、止めを刺したと伝えている、しかし寺の名前はわかっていない。